問い(あるいは迷い)
http://www.uchida-shinya.net/message/201208e.html
捨てられない。
というとき、なんだかみんな誇らしげだ。
私もその感覚を持っていたのに、いまはもうない。
27歳のとき、ありと、あらゆるものをターゲットに、たくさんの、とてもたくさんのものを捨てた。お部屋はからっぽになり、棚にはなにもなくなった。ちいさなカラーボックス1つが残り、少しの本と、たった1つ、捨てられないぬいぐるみが置いてあった。
あのとき捨てられなかったぬいぐるみさえも、捨てて、卒業アルバムも、昨年捨てた。
もう、いらないんだ。
というか、欲しくないものをもっているのが、ストレスなんだ。
そうは言っても捨てられないのよね、とほとんどの人が言う。すこし、誇らしげに。
そういう人たちをみていると、なんだかじぶんは、ひどく、遠いところへ来てしまったように感じた。
捨てられる人が羨ましい、とみんな口ぐちに言いながら、だれもここへは来てくれないのだな、と思っていた。本屋さんにいくと、お部屋を片付けるための技術が書かれた本がたくさんあるけれど、でも、どれを読んでもなんとなく、私の感じているきもちを書いた本に出会ったことは、まだない。
(あ、でもこのまえちょっとだけ立ち読みした、こんまりさんの「人生がときめく片づけの魔法」は少し近いかも。こんどちゃんと読もう。)
友人に、ふたり、この気持を理解してくれるひとがいた。
ひとりは、私がむかし、たくさんのものを捨てたときに、泣く泣く捨てた、と私が語ったら、
「私はもともと、本当に欲しいものしか欲しくないのよ・・・高校の制服も、卒業式から帰って、脱いで、そのままゴミ袋に入れたわ・・・」
とアンニュイに語る女だった。(この人はいつでもどことなくアンニュイだ。)
高校のころは、みんなよりちょっと大人っぽくて、青臭い葛藤とは無縁なのかなあ、とみえていたけれど、「葛藤のない、達観した人間である私」という風にみられたくて、血のにじむような努力を影でこっそりしているのが、三十路のころにもなると、だんだんわかってきた。かわいいやつだ。
もうひとりは、離婚したあとに、別れた奥さんとの思い出が、家具にも、服にも、本にもあるから、あらゆるものを捨てて、お部屋を空っぽにしたと言った。泣く泣く捨てたから、気持ち、分かるよ、と言ってくれた。びっくりするくらい女々しい男だなー、と思ったが、けっこう好きだった。でもいまは、じぶんの好きなものに囲まれてるから幸せ、と言っていた。
(その後、再婚し、次の奥さんと思い出をどんどんため込んでいるようである。ちっ。勝手にガラクタに埋もれてしまえ。)
私が部屋においておく、判断基準は、「動揺するか、しないか」である。
一人暮らしをはじめて、一目ぼれして買った(でも3カ月くらい悩んで買った)テーブルがあった。ちょっと値が張ったけれど、大好きな感じのアジアンテイストで、こげ茶色のローテーブル。落ち着いたこげ茶色の内装のカフェが好きで、一人暮らしをしたら、自分の部屋も、たとえば↓こんな感じにしたい!と憧れていた。
http://asian-interior.com/coordinate/concept/asian_1.html
http://aflat.jp/topic/in-the-room/one-room/index.html
でも、使ってみると、表面はちょっとでこぼこしていて、書類になにかサインするときに下敷きがいるし、テーブルの角に時々足をぶつけて痛かった。
すごく好きなテイストなのに(高かったし)使いにくくて(高かったから!)捨てたくないけど、だんだんイヤになってきた。
テーブルをみるたびに、かるく動揺する。
捨てようか、捨てまいか。(高かったよなあ)
動揺の感覚にだんだん慣れてきても、頭の、ほんのかたすみに、ちらっとよぎる。(捨てようか、捨てまいか)
この「ちらっとよぎる」が毎日続くと、結構ストレスと化してくる。
ある日、私は決断した。
捨てよう、と。
(欠点も含めて愛そう、と思えなかったのだ。最初が好き過ぎて、捨てるときは、だれかの形見を捨てるかのような気持になった。)
次に買ったテーブルは、おねだん以上ニトリ♪で購入した、どこにでもありそうな、こたつだった。使いやすさと、背伸びしないお値段、ぶつかって痛くない角の丸い天板、冬はこたつ、夏はローテーブルとして使える。(ニトリってすばらしい)
買って何年経ったか忘れてしまったけど、じぶんにすごくしっくりくる感じ。
大好き!一目ぼれしたの!・・・なんて感覚はなかった。
目立たなくて、使いやすくて、これでいい、と思えた。
そばに置いてあって、動揺しないもの。
好きな感じだけど、狂おしいほど好きでなく、わたしにしっくりくるものが、いいものだ、と私は思う。
しかし、ここへきて、なんとなく、おかしい。
いまの私は、捨てるときにほとんど迷わなくなった。
これは、きっと使わない ⇒ 捨てる
とスムーズな生活だ。
でも、じぶんが少しおかしい気がする。
いま、現在お付き合いのあるひととの、思い出の品を、捨てようとしているときに、それは起こる。
旅行に行っても私は、お土産はほとんど買わないし、買っても職場用だとか、以前にお土産をいただいたひとへのお返しとか、つまりは義理で買うものであって、消えてなくなるものが基本だ。
しかし、たまに何かきまぐれに持って帰ってしまう。
地方のゆるキャラグッツを買ったり、かわいかったカフェのカードをもらってきたり。
ゆるキャラグッツは、大抵すぐに役に立つものを買ってくる。もったいないから使わない、ということは絶対ない。使わないほうがもったいと考えるからだ。
そしてパンフレットなら、そうね、2週間くらいながめて(その間、透明の固いプラケースなどにいれて飾ったり、何度も何度も読み返し)充分に思い出に浸ったら、捨てるわな。
それなのに、最近のわたしときたら、パンフレットをいちいちファイリングし、どこかへの入場チケットなどまでも、台紙にはりつけ、ファイリング。どこでもらったのかわからなくなりそうなのは、台紙の空白に経緯をメモ。
これらが、けっこうたまってきた。
・・・捨てようかなぁ、と思う。
いらないものを、ためこんでいくのは、自分らしくないと思う。
旅行のパンフレット、旅先で押したスタンプ、カメラがなかったので、あとで思い出してスケッチブックに描いた絵。ペットボトルの飲料についてきた、おまけ。(ほんの少し前のわたしなら、迷わず捨てる)
捨てようかなあと思う。
おそらく、思い出の品を眺めるときの「懐かしい」というあの感覚に、困惑するのだ。
楽しかったあのときにしばらくひたってしまい、でもそれは「いま」ではないのだ、ということに。
じぶんを動揺させる、すべてのものを排除した王国が欲しくて、一人暮らしをしているのに。
だけど、無駄なものを、置いてあってもいいんじゃないのかな、とも思い始めている。
あってもなくてもいいんだけど、置くなら置く、捨てるなら捨てる、の選択をしたいのだ。
その選択になっとくのいく理由があれば、実行できるのに、できない。
これはなんだろう。
理由がみつからないのだ。
思い出を残しておく、メリットが見つからないのに、捨てていない。
なぜなのだろう。
そうは言っても、捨てられないんですよね、あはは
一周まわって、そこかーーーーーーーー!!?
と、脳内でセルフつっこみがエンドレスである。
ちょっとどうにかしたい。