約束をやぶること


フットサルのある日
バスケのある日


その2〜3日まえから具合がわるくなって、スポーツの行事を欠席、会社も休む


12月の終わりごろからずっとそんなことをしている。


こんなことをして、わたしは、何に気付きたいんだろう。



病気になれば、休む。

休みたいから、病気なってる、のかなとも思う。



まあ休めたんだし、願いは叶っている。

なのに、なんとなく、キャンセルすることばかり、最近続く。




同じことが起こり続けるなら、わたしは何かに気付こうとしている。
と思う。




友達との忘年会も、新年会も、約束していた遊びに行く約束、ことごとく、キャンセルしている。




病気をしたら、いけない

会社をやすんでは、いけない

約束を、キャンセルしてはいけない



なのに、キャンセルせざるを得ないことばかり、おきている

なぜ、キャンセルさせるんだろう

わたしは、この状況で、何を気付きたいんだろう?





・・・・・・してはいけない?



ほんとに?




約束を、キャンセルすること。


すごく、すごく、こわいこと。


でも、約束してしまったからには、ぜったいに実行しないと迷惑だ、と思い始めるあたりから、ぐっとストレスがかかる。


・・・・・・・・・・むかし、迷惑をかけられたのか、わたし・・・?


ああ、あれか。
母が、仕事で、忙しくて、やっぱり遊びに連れて行ってあげられない、と言ってたことが。



最初から、約束しなきゃいいのに!!

ってわたしは怒ってた。



・・・・・・いや、悲しかったんだ。



約束破られて、悲しかったんだ。

裏切る人を、許してなかったんだ。 母を、許してなかったんだ。



反故にする
キャンセルする
裏切る
言ってたことと違う


そういうのが、わたしは、すごく、許せなかった。



転職したばかりのとき、思った。
言ってた仕事と違うじゃないか。



最近変わった仕事の分担。
言ってた役割分担と違うじゃないか。



・・・ほんとに、そう言っていた?
言っていた、んじゃなくて、私が聞いて、そう、勝手に解釈しただけじゃないのかな。


わたしが、勝手にそう決め付けたことに、思い通りにならなくて、怒っていたんじゃないのかな。




人の都合も考えないで。


子供みたいに。


誰だって事情が変わったら、臨機応変にするけれど、私はそういうのを、「こう言ってたじゃん!!」ってしがみつく。




今なら、わかったよ、おかあさん。

仕事、疲れてると、遊びにいけないね。




状況が変わったから、できない。

あたりまえじゃんね。



状況が変わったら、変わった場所で、できる、楽しいことも、あったのにね。




これに、気付きたかったのかな、わたし。

勉強してもできない証拠


でもでも、じぶんより、才能のあるひと、いっぱいいるし。


じぶんは、昔勉強して、こんなにできなかったし。


もう目の前に、才能があって、とってもよくできるひとがいると、勉強してます、なんて恥ずかしくて言えないし。



ずっと、そうやって、できない証拠集めしてた。
勉強しない理由をいっぱいかき集めてた。


やめたい。


そういう言い訳するの、もうやめたい。





・・・やめていい、よね。





できなくてもいい。


できない自分でもいい。


ひとより才能のない私でもいい。


それが人にバレてもいい。



いちばん怖かったのは、バレることだった。




■わたしは、わたしのやりかたで、やってもいい


・・・たぶんw



「えーでも、こうやりなよ」
って誰かの声が聞こえるけれど、


うるさいわ!!


っていつも、振り払ってた。
その声が怖かった。




『わたしは、こうしたいから、こうやってみる』


『虫がいいかもしれないけど、わたしのやりかたで失敗したら、君の言った方法、あとで、やっぱり「教えて」って言ってもいい?』



そう言って、たったひとりで、
じぶんのやりかたで、
冒険して、

・・・失敗してw


帰ってきたときに、誰もいなくなって、だれからも相手にされない、かもしれない、のが、怖かった。



・・・・・・ふう・・・・・。



こう書いてみると、とくにこわいことでもないわね(笑)




■ありのままのきみでいい、のワナ


うーむ。

よーし。

もうちょっと、ほじくってみよう。




「君は才能がないから、その勉強やめなさい」


とか


「いまのままの君でいいんだから、何もしなくていいよ(ダメなきみがいたほうが、自分が上だと思えて好都合)」



って、誰も口にださないけど、そう思ってるんでしょ、ってすねてた。
(黒いな・・・w)



昨日。

ついったーで、ムーミンにでてくる「ミィ」のね、botをたまたま見て、はじめて腑におちたんだわ。

あなた自分を変えるタイミングとかチャンスとか探してるじゃない。バカね。 探してる間に人生終わっちゃうわよ。 今の自分のままでいいのよ。今の自分のままで出来る小さなことをちゃんとするのよ。 そうすれば知らないうちに変われるのよ。 それでも変わらなければあなたは本当のバカね。


https://twitter.com/little_my/status/297563205683793920

■知っていて


わたしは、

じつは、人の言うこと聞かない頑固もので、

ひとの言うことを素直にきく、いいヒトな私と思われたかっただけで、

ほんとうは、腹のなかでは「ばーか」って思ってた。

(まっ黒だな・・・!あっはっはw)



じつは、こういうじぶんを隠してるつもりだったけれど、たぶん、わたしのまわりにいるひとは、とっくに知ってたんだね。



知ってるのに、いてくれた。



いやねえ〜

もう〜

知ってる、って早く言えよ!!ばか!!w



・・・どうも、ありがとう。

(言わないでいてくれて、ありがとう)

某国の大統領選

映像みていて、あのふたり、青と赤のネクタイをそれぞれがして、並んだ画がよく映されるのだけど、どうもリサとガスパールにみえてな。

リサとガスパールのであい

リサとガスパールのであい

部屋を片付けた


買ったけど着ない服、少しかけたコップ、応募期限の切れたシール。

(い、いつのまに、ためこんでたんだ……?)

捨てたかったものは、ほんとうに、そいつぁ捨てなよ……といったものばかりだった。そういうものが、家のあちこちにあると、もう、なにもかもを捨てたくなる(大切なものもろともね)のは、悪いくせかもしれない。



前の日記で書いた思い出の品は、きちんとしまわれた。



でも、100円ショップで買ったバインダーは、開け閉めがしづらいなぁ……と気がついて、私は、バインダーの方を捨てたかったのかなぁ、と思い至ったのだ。


こんど文房具屋さんへ行って、ずっと取っておきたくなるような「バインダー」を買ってこよう。

旅の思い出のパンフレットは、そこへしまい、たいせつに、とっておこう。


(それから、また旅へ出たいね)

問い(あるいは迷い)

http://www.uchida-shinya.net/message/201208e.html

捨てられない。


というとき、なんだかみんな誇らしげだ。


私もその感覚を持っていたのに、いまはもうない。
27歳のとき、ありと、あらゆるものをターゲットに、たくさんの、とてもたくさんのものを捨てた。お部屋はからっぽになり、棚にはなにもなくなった。ちいさなカラーボックス1つが残り、少しの本と、たった1つ、捨てられないぬいぐるみが置いてあった。

あのとき捨てられなかったぬいぐるみさえも、捨てて、卒業アルバムも、昨年捨てた。


もう、いらないんだ。

というか、欲しくないものをもっているのが、ストレスなんだ。


そうは言っても捨てられないのよね、とほとんどの人が言う。すこし、誇らしげに。
そういう人たちをみていると、なんだかじぶんは、ひどく、遠いところへ来てしまったように感じた。
捨てられる人が羨ましい、とみんな口ぐちに言いながら、だれもここへは来てくれないのだな、と思っていた。本屋さんにいくと、お部屋を片付けるための技術が書かれた本がたくさんあるけれど、でも、どれを読んでもなんとなく、私の感じているきもちを書いた本に出会ったことは、まだない。
(あ、でもこのまえちょっとだけ立ち読みした、こんまりさんの「人生がときめく片づけの魔法」は少し近いかも。こんどちゃんと読もう。)


友人に、ふたり、この気持を理解してくれるひとがいた。


ひとりは、私がむかし、たくさんのものを捨てたときに、泣く泣く捨てた、と私が語ったら、
「私はもともと、本当に欲しいものしか欲しくないのよ・・・高校の制服も、卒業式から帰って、脱いで、そのままゴミ袋に入れたわ・・・」
とアンニュイに語る女だった。(この人はいつでもどことなくアンニュイだ。)
高校のころは、みんなよりちょっと大人っぽくて、青臭い葛藤とは無縁なのかなあ、とみえていたけれど、「葛藤のない、達観した人間である私」という風にみられたくて、血のにじむような努力を影でこっそりしているのが、三十路のころにもなると、だんだんわかってきた。かわいいやつだ。


もうひとりは、離婚したあとに、別れた奥さんとの思い出が、家具にも、服にも、本にもあるから、あらゆるものを捨てて、お部屋を空っぽにしたと言った。泣く泣く捨てたから、気持ち、分かるよ、と言ってくれた。びっくりするくらい女々しい男だなー、と思ったが、けっこう好きだった。でもいまは、じぶんの好きなものに囲まれてるから幸せ、と言っていた。
(その後、再婚し、次の奥さんと思い出をどんどんため込んでいるようである。ちっ。勝手にガラクタに埋もれてしまえ。)



私が部屋においておく、判断基準は、「動揺するか、しないか」である。



一人暮らしをはじめて、一目ぼれして買った(でも3カ月くらい悩んで買った)テーブルがあった。ちょっと値が張ったけれど、大好きな感じのアジアンテイストで、こげ茶色のローテーブル。落ち着いたこげ茶色の内装のカフェが好きで、一人暮らしをしたら、自分の部屋も、たとえば↓こんな感じにしたい!と憧れていた。


http://asian-interior.com/coordinate/concept/asian_1.html
http://aflat.jp/topic/in-the-room/one-room/index.html


でも、使ってみると、表面はちょっとでこぼこしていて、書類になにかサインするときに下敷きがいるし、テーブルの角に時々足をぶつけて痛かった。


すごく好きなテイストなのに(高かったし)使いにくくて(高かったから!)捨てたくないけど、だんだんイヤになってきた。


テーブルをみるたびに、かるく動揺する。
捨てようか、捨てまいか。(高かったよなあ)
動揺の感覚にだんだん慣れてきても、頭の、ほんのかたすみに、ちらっとよぎる。(捨てようか、捨てまいか)


この「ちらっとよぎる」が毎日続くと、結構ストレスと化してくる。


ある日、私は決断した。
捨てよう、と。
(欠点も含めて愛そう、と思えなかったのだ。最初が好き過ぎて、捨てるときは、だれかの形見を捨てるかのような気持になった。)


次に買ったテーブルは、おねだん以上ニトリ♪で購入した、どこにでもありそうな、こたつだった。使いやすさと、背伸びしないお値段、ぶつかって痛くない角の丸い天板、冬はこたつ、夏はローテーブルとして使える。(ニトリってすばらしい)


買って何年経ったか忘れてしまったけど、じぶんにすごくしっくりくる感じ。
大好き!一目ぼれしたの!・・・なんて感覚はなかった。
目立たなくて、使いやすくて、これでいい、と思えた。



そばに置いてあって、動揺しないもの。
好きな感じだけど、狂おしいほど好きでなく、わたしにしっくりくるものが、いいものだ、と私は思う。




しかし、ここへきて、なんとなく、おかしい。

いまの私は、捨てるときにほとんど迷わなくなった。
これは、きっと使わない ⇒ 捨てる
とスムーズな生活だ。


でも、じぶんが少しおかしい気がする。
いま、現在お付き合いのあるひととの、思い出の品を、捨てようとしているときに、それは起こる。


旅行に行っても私は、お土産はほとんど買わないし、買っても職場用だとか、以前にお土産をいただいたひとへのお返しとか、つまりは義理で買うものであって、消えてなくなるものが基本だ。


しかし、たまに何かきまぐれに持って帰ってしまう。
地方のゆるキャラグッツを買ったり、かわいかったカフェのカードをもらってきたり。
ゆるキャラグッツは、大抵すぐに役に立つものを買ってくる。もったいないから使わない、ということは絶対ない。使わないほうがもったいと考えるからだ。
そしてパンフレットなら、そうね、2週間くらいながめて(その間、透明の固いプラケースなどにいれて飾ったり、何度も何度も読み返し)充分に思い出に浸ったら、捨てるわな。


それなのに、最近のわたしときたら、パンフレットをいちいちファイリングし、どこかへの入場チケットなどまでも、台紙にはりつけ、ファイリング。どこでもらったのかわからなくなりそうなのは、台紙の空白に経緯をメモ。
これらが、けっこうたまってきた。


・・・捨てようかなぁ、と思う。


いらないものを、ためこんでいくのは、自分らしくないと思う。
旅行のパンフレット、旅先で押したスタンプ、カメラがなかったので、あとで思い出してスケッチブックに描いた絵。ペットボトルの飲料についてきた、おまけ。(ほんの少し前のわたしなら、迷わず捨てる)


捨てようかなあと思う。


おそらく、思い出の品を眺めるときの「懐かしい」というあの感覚に、困惑するのだ。


楽しかったあのときにしばらくひたってしまい、でもそれは「いま」ではないのだ、ということに。
じぶんを動揺させる、すべてのものを排除した王国が欲しくて、一人暮らしをしているのに。



だけど、無駄なものを、置いてあってもいいんじゃないのかな、とも思い始めている。
あってもなくてもいいんだけど、置くなら置く、捨てるなら捨てる、の選択をしたいのだ。
その選択になっとくのいく理由があれば、実行できるのに、できない。


これはなんだろう。
理由がみつからないのだ。


思い出を残しておく、メリットが見つからないのに、捨てていない。
なぜなのだろう。


そうは言っても、捨てられないんですよね、あはは


一周まわって、そこかーーーーーーーー!!?


と、脳内でセルフつっこみがエンドレスである。

ちょっとどうにかしたい。

教え方メモ

説明するとき、ひとつの文は短く。

話し言葉はついつい、接続詞を多用してしまう。結果、なにが重要で、どこが結論だったか分かりづらくなる。
たとえば、この→【はてなダイアリーからはてなブログへのインポート機能を追加】の記事。


説明が端的で、わかりやすい。
最初の方、抜粋します。

本日、はてなブログに、はてなダイアリーからのインポート機能を追加しました。3ステップのかんたん操作で、はてなダイアリーからはてなブログへ記事を移行できます。
移行できるのは、はてなダイアリーの記事・コメントと、記事に付けられたはてなスターはてなブックマークです。
この機能は、はてなダイアリーユーザーの皆さまに無料でご利用いただけます。


上の記事を、口頭で伝えるとする。
私はよく、以下のような感じに説明をやってしまった。

今日ね、はてなブログで、はてなダイアリーからのインポート機能が追加されたんだけど、かんたんな操作で、はてなダイアリーからはてなブログへ記事を移行できるんだけど、あ、でも移行できるのは、はてなダイアリーの記事とコメントと記事に付けられたはてなスターはてなブックマークでね、はてなダイアリーユーザーなら無料で使えるの。


もうなにがなんだか(笑)

はてなさんが書いたほうは、

  1. 追加された機能があるよ
  2. はてなダイアリー → はてなブログ への移行ができるよ
  3. 移行できるのは、これとこれ、それからこれとこれだよ
  4. 無料でできちゃうよ

といった情報を、短く区切って話している。
さらに上記には抜粋してないが、さらに詳細がこの続きにある。
詳細に入る前の「全体像」をここで語っているから、このあとの詳細も読みやすいものになっている。


いっぽうわたしがよくやってしまった方の文は、接続詞を使いすぎ。
〜〜なんだけど〜〜〜で、〜〜〜なんだとおもうんだけど、〜〜〜だからね・・・・と、いつまでも終わらない文。
切れ。

どっかで区切ってくれ。
聞いてるほうが疲れてしまうだろう。


短いセンテンスで伝えるといい。
聞いてる人に楽をさせてあげないといけない。